言葉、言葉、言葉。
ぼくたちは言葉でしか世界を認識できない。
ぼくらに(惜しくも)忘れられてしまった出来事のすべては、
ただ言葉になりそこねた、というだけで「忘却」という悲運な末路を辿った。
本人に語られなかった歴史は、誰にも発見されずにただ死を待つのみなのだ。
だからこそ、ぼくらは語る。語り尽くす、それは雄弁に。
世界のすべてを記録しようという、これは無謀な挑戦なのだ。
(70億人×一生、という膨大なデータの受け皿が用意されているかを考えれば、これが無謀でなくてなんだというのだ)
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某FM局にて、今年が没後30年である寺山修司の特番のインタビュー収録。
その後、会社に戻ってドレスコーズを総括するロング・インタビュー。
言葉で歴史を肯定してみせる(そしてそれに成功した)一日。
ぼくはその最中で、いくつかのウソをついたかもしれない。
そして、それは今日をもって「正史」となる。
言語化の成功は、そのまま自分の歴史の大肯定にほかならないのだ。
ぼくらの歴史は、編集される時を待っている。
ただ自らの言葉によって、だけ。
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「墓は建ててほしくない。私の墓は、私の言葉であれば十分。」(寺山修司)